第10回日本文学国際会議
-夏目漱石国際シンポジウム-
本シンポジウムは終了しました。多数のご参加ありがとうございました。
夏目漱石国際シンポジウム実行委員長佐藤裕子教授による実施報告はこちらから
2016年12月8日(木)、9日(金)、10日(土)の3日間、第10回フェリス女学院大学日本文学国際会議「夏目漱石国際シンポジウム」を開催します。
第10回となる今回は、2016年に没後100年、2017年に生誕150年を迎え、日本の国民的作家ともいうべき「夏目漱石」にスポットを当て、「漱石は世界をどう読んだか? 世界は漱石をどう読んでいるか?」をテーマに2部構成で開催します。
第1部では、小説家・夏目漱石の原点を探る場として、英文学者・夏目漱石は世界文学をどのように読んだのかを、第2部では、夏目漱石の文学的世界に魅了された人々によって各国語に翻訳された漱石文学が世界中でどのように読み継がれているかを、世界の第一線で活躍する日本文学・日本文化研究者を招聘し、多角的な視点から検証します。
開催日 | 2016年12月8日(木)~10日(土) |
会場 | 12月8日(木)・9日(金) フェリス女学院大学緑園キャンパス 12月10日(土)有楽町朝日ホール |
入場料 | 無料 |
問い合わせ先 | 企画・広報課 TEL:045-812-9624 E-mail:souseki-symp@ferris.ac.jp |
主催 | 朝日新聞社、岩波書店、国際交流基金、フェリス女学院大学 |
プログラム概要
12月8日(木)前夜祭 会場:フェリス女学院大学緑園キャンパス
-世界文学としての夏目漱石-
(開場13:30)
14:00~14:30 開会挨拶
14:30~16:00 基調講演 小森 陽一 氏(東京大学)
12月9日(金)第1部 会場:フェリス女学院大学緑園キャンパス
-漱石は世界をどう読んだか?-
(開場9:30)
10:00~11:00 「英文学と漱石」田久保 浩 氏(徳島大学)
11:00~12:00 「ヨーロッパ文学と漱石」大野 英二郎 氏(フェリス女学院大学)
12:00~13:30 休憩
13:30~14:30 「中国文学と漱石」林 少陽 氏(東京大学)
14:30~15:30 「孫が読む漱石」夏目 房之介 氏(学習院大学)
15:30~16:30 「女性が読む漱石」飯田 祐子 氏(名古屋大学)
12月10日(土)第2部 会場:有楽町マリオン・朝日ホール
-世界は漱石をどう読んでいるか?-
(開場12:00)
12:30~13:30 漱石国際エッセーコンテスト表彰式
13:30~13:45 休憩
13:45~16:45 翻訳者シンポジウム
アメリカ マイケル・ボーダッシュ 氏(シカゴ大学)
アメリカ キース・ヴィンセント 氏(ボストン大学)
ノルウェー 安倍オースタッド 玲子 氏(オスロ大学)
韓 国 朴 裕河 氏(世宗大学)
中 国 李 広志 氏(寧波大学)
17:00 閉会挨拶
コラム 世界を魅了した夏目漱石
夏目漱石の研究者である日本語日本文学科佐藤裕子教授が、日本のみならず世界をも魅了した漱石文学について解説します。
その1 夏目漱石国際シンポジウムの概要
フェリス女学院大学文学部日本語日本文学科が開催する日本文学国際会議は、今回で10回目を迎えます。今回の日本文学国際会議のテーマは、2016年に没後100年、2017年に生誕150年を迎える「夏目漱石」。第1日目の12月8日(木)は前夜祭を開催し、「漱石は世界をどう読んだか? 世界は漱石をどう読んでいるか?」をテーマに、東京大学の小森陽一先生に「世界文学としての漱石」という基調講演をお願いしています。
2日目は「漱石は世界をどう読んだか?」というテーマで、「漱石と英文学」、「漱石とヨーロッパ文学」、「漱石と中国文学」に関して、第一線で活躍される先生方に語っていただきます。夏目漱石は、森鴎外と並び称される明治の二大文豪ですが、その作家生活はわずか11年であることは、あまり知られてはいません。漱石が本格的な作家活動に入るのは、1903年ロンドン留学から帰国し、東京帝国大学文科大学講師時代のことです。1905(明治38)年に「吾輩は猫である」(第1章分)を雑誌『ホトトギス』1月号(1月1日発行)に、また「倫敦塔」を『帝国文学』1月号(1月10日発行)に発表し、1916(大正5)年、『明暗』連載中の12月9日に持病の胃潰瘍の悪化のために亡くなるまで、『吾輩は猫である』から『明暗』までの作品を書き続けることになるのですが、漱石文学の特殊性というものがもしあるとすれば、それはまず漱石が「文学」を研究の対象とする立場、つまり「文学」を<鑑賞>し、<読む>という立場からスタートした点にあると思います。なぜなら、作品が読者にどのように読まれるかということを、漱石が何よりも意識していたと考えられるからです。
このような訳で、本シンポジウムの第2日目は、英文学者・夏目漱石が世界文学をどのように読んだかを探りたいと考えています。まさにそれこそが、小説家・夏目漱石の誕生の原点となるからです。加えて、3日目の「世界は漱石をどう読んでいるのか?」をテーマとした「翻訳者シンポジウム」につなげるために、日本において夏目漱石文学がどのように読まれているか、孫の夏目房之介氏、女性読者代表としてジェンダー研究の第一人者である飯田祐子氏を報告者として、お招きします。
第3日目は、会場を東京の有楽町朝日ホールに移し、世界中の夏目漱石文学の翻訳者をお招きして「翻訳者シンポジウム」を行います。アメリカ、ヨーロッパ、中国、韓国で、漱石作品がどのように読まれ、受容されているかを探ります。
漱石は、東京帝国大学を辞職し、朝日新聞社に新聞小説家として入社する1907(明治40)年に、東京帝国大学時代の講義録『文学論』を上梓しています。『文学論』には、英文学作品を中心として、322箇所に及ぶ引用がされているのですが、大学教員から新聞小説家・夏目漱石への転向の後押しをしたのは、英文学作品への深い理解と、膨大な数の英文学作品からの引用でありました。引用から創作へと、夏目漱石が構築した作品世界を理解するための3日間のプログラムとなっています。皆さまのご参加をお待ちしております。
その2 漱石のロンドン体験
今回は、漱石にとってのロンドン体験の意義について、考えてみたいと思います。1893(明治26)年に、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業した漱石は、そのまま東京帝国大学大学院に進学します。その2年後、1895(明治28)年、愛媛尋常中学校に就職し、翌1896年には、第五高等学校教授として熊本に赴任します。そこで4年を過ごし、1900(明治33)年5月12日、英語研究のため英国留学を命じられ、9月8日にプロイセン号で横浜を出発したのは周知のところです。漱石にとってのこの英国留学は、従来、〈漱石における東洋と西洋の対立〉、〈近代的自我の覚醒と葛藤〉という文脈を生み出すのですが、東洋と西洋の対立・葛藤の図式は、独り漱石に限ったことではありません。当時、ヨーロッパに留学した日本人の誰もがその程度の差こそあれ、経験したことであり、直面した問題であることは言うまでもありません。異文化体験ということであれば、それは漱石の時代に限らず、現代に生きる私たちにも共通する問題です。漱石に話を戻して考えてみますと、このイギリス留学は漱石における東と西、東洋と西洋の対立という図式を超えて、小説家・夏目漱石の誕生に繋がる「文学とは何か」「文学を学ぶ意味とは何か」という、当時最新のテーマと出会うこととなる契機にもなっていることをここで確認したいと思います。
漱石の時代、それまで「趣味」や「教養」としての地位にあった「文学」が大学の「正課」となり、ヨーロッパにあっては「キリスト教」に代わり、社会や人生のあり方を問い直すものとして、道徳的・倫理的側面から「文学」の果たす役割が強く期待されていました。キリスト教社会においては、宗教法と世俗法が殆どの場合一致します。例えばそれは旧約聖書における「十戒」であり、「申命記」であり、「レビ記」です。そこには、〈人間がやってはいけないこと〉あるいは〈守るべきルール〉が書かれてあり、聖書が人間の行動を規定する裏付けとなっていたということです。
ところが、漱石の時代、キリスト教に翳りが見え始めます。ダーウィンの進化論と、旧約聖書「創世記」の記述の矛盾をどのように受け入れるかということです。まさに人間にとっての道徳的・倫理的規範として揺るぎない地位を占めていたキリスト教が揺らぎ始め、それに取って代わるものとしての「文学」の役割がクローズアップされ始めた時代に、漱石は遭遇したということになります。
そもそもLiteratureという単語が、詩や小説や物語を総称する言葉となったのは、20世紀初頭のことで、それまでは「Literature=文献」という枠組みで捉えられていたことは周知のところです。漱石がイギリスに留学したのが1900年。19世紀最後の年でした。
漱石の生きた時代、「文学とは何か」という問いは、〈芸術としてLiterature(文学)〉という概念が成立した時代に相応しい、最も新しいテーマであったといえるでしょう。
漱石は留学中に、膨大な数の文献を読み、ノートをとり、「文学とは何か」という問いに向き合い、考え続けます。そしてその成果は、帰国後、東京帝国大学文科大学英文学科で「英文学講義」として約2年間講義され、1907(明治40)年、『文学論』として出版されました。次回は、この『文学論』について、考えてみたいと思います。
その3 『文学論』の成立
『文学論』は、イギリス留学から帰国した漱石が、東京帝国大学文科大学英文学科講師として1903(明治36)年9月から1905(明治38)年6月まで「英文学概説」として講義したものを、弟子の中川芳太郎に「章節の区分目録の編集其他一切の整理を委託し」、さらに漱石自身が加筆修正を加えて、1907(明治40)年5月7日、大倉書店から刊行されました。その内容は、まず「序」に続き、本論は第1編から第5編までで、第1編が3章、第2編が4章、第3編が2章、第4編が8章、第5編が7章から構成されています。第4編と第5編の章立てが、他の編と比べて若干均衡を欠いているのですが、これは出版に際して漱石自身によって加筆修正された部分(第4編第5章以降と第5編の全て)と重なり、講義時から加筆時までの漱石自身の問題意識の変化によるものであることは疑いもありません。さらに言うならば、1905年1月から『文学論』発表時の1907年までの間に『吾輩は猫である』、『漾虚(ようきょ)集』各編、「坊つちやん」、「草枕」、「二百十日」、「野分」までの作品が発表されていることからも、「文学」を〈研究する立場〉から、〈自ら創作する立場〉へと変化するその只中において、この『文学論』は修正されているということになります。
それにしても、漱石が100年あまり前に苦闘した「文学とは何か」という問いは、当時は最も新しい、注目すべきテーマであったことは前回のコラムにも書きましたが、今また形を変えて現在の私たちが直面する問題でもあります。それは「何故文学を学ぶのか」「文学を学ぶことは役に立つのか」という現実的な問いであり、もっと直截に「文学の研究を通して何を得ることができるのか」という問いです。漱石は「野分」の中で「文学は人間が生きることそのものだ」と白井道也に語らせましたが、「文学とは何か」「何故文学を学ぶのか」という問いの複雑さ・難しさは、「文学」がまさにその「自己言及性」のゆえに、自ら完結することを拒み、絶えず私たちに自らを問い直すことを迫る存在であるからにほかなりません。つまり〈ことばの意味〉にしても、あらゆる「意味」というものが、それ自体では完結せずに、次から次へと網目状に拡がってゆくように、「文学」について考えることは、その「文学」が関わるあらゆる事象について追及し続けることでもあるからです。「文学」が、作者や、読者や、登場人物の心理状態や、使われていることばの意味や、時代背景や、社会状況や、文化的背景や、歴史や、その他ありとあらゆる事象と関連付けられる点に「文学」の面白さは存在しますし、同時に「文学」の捉え難さも存在するということです。あるいは逆に、何かを表現することが次なる何かを引き寄せるという、実に不安定な「文学」の有様こそが、漱石を駆り立て、『文学論』の中で「文学の研究」が、あるいは「文学を創造すること」が、自己の一生を賭けるに足るだけのものであるかを見極めようと企てさせたともいえるでしょう。
『文学論』は、漱石の認識した世界を可視化するものとして、つまり何を読んで、何を考えたか、どのような刺激を受けたかを、一目瞭然に映し出すものとして、重要な意味を持っています。『文学論』の中で独立して引用された資料の総数は322。次回は、『文学論』が示す世界をじっくりと読み解いていきたいと思います。
その4 『文学論』序の意義
『文学論』が論じられる場合、必ずといっていい程取り上げられるのは、その「序」の後半部の異様なまでの激しさです。この『文学論』の「序」は、『文学論』出版に先立って1906(明治39)年11月4日『読売新聞』「日曜文壇付録」に掲載されたものなのですが、その内容は大きく二つに分けることができます。まず留学を命じられた経緯に始まり、文部省から与えられた「英語」という研究題目、イギリス到着後の事情、留学中に生まれた「根本的に文学とは如何なるものぞ」という問題意識、そしてその問題意識に沿った研究の変化、帰朝後にそれが「英文学講義」として結実するまでを語る前半部分、さらに二年間のロンドン滞在中と帰朝後から1906(明治39)年現在までの状況が語られる後半部分なのですが、どのように激しいものであるか、引用してみます。「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬のごとく、あはれなる生活を営みたり。倫敦の人口は五百万と聞く。五百万粒の油のなかに、一滴の水となつて辛うじて露命を繋げるは余が当時の状態なりといふ事を断言して憚らず」「帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり」「英国人は余を目して神経衰弱といへり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりといへる由。賢明なる人々の云ふ所には偽りなかるべし」「帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり」「たゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、『猫』を草し『漾虚(ようきょ)集』を出し、又『鶉籠(うずらかご)』を公けにするを得たりと思へば、余は神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの妥当なると信ず」「余が身辺の状況にして変化せざる限りは、余の神経衰弱と狂気とは命のあらん程永続すべし。永続する以上は幾多の『猫』と、幾多の『漾虚集』と、幾多の『鶉籠』を出版するの希望を有するが為めに、余は長しへに此神経衰弱と狂気の余を見捨てざるを祈念す」というのです。従来の研究においては、この「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」という漱石の言葉が疑われることはありませんでした。果たして本当にそうなのでしょうか?「狼群に伍する一匹のむく犬」という表現にしても、「五百万粒の油のなか」の「一滴の水」という表現にしても、〈たった独り〉という孤独以上に、己が異質であることを認識しつつなお同化するのではなく〈たった独りの私〉として生きて在ることを示しているとはいえないでしょうか?「神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表する」「神経衰弱と狂気とは命のあらん程永続すべし」等の表現も、『吾輩は猫である』、『漾虚集』、『鶉籠』(「坊つちやん」「草枕」「二百十日 」)に収められた各編が一貫してアイロニーに彩られていたことを考えると、赤裸々な漱石の心情の発露というよりは、自分の本来の意図とは別に、自らを「狂人」として進んで滑稽な者として描くアイロニーの表現であると考えることもできるからです。留学にまつわる〈矛盾した心情〉について、『道草』の冒頭では次のように表現されています。「彼の身体には新らしく後に見捨てた遠い国の臭がまだ付着してゐた。彼はそれを忌んだ。一日も早く其臭を振り落とさなければならないと思つた。さうして其臭のうちに潜んでゐる彼の誇りと満足には却つて気が付かなかつた」(『道草』一、傍線筆者)。この傍線部の一文をもって〈漱石が英国留学を誇りに思っていた〉とダイレクトに漱石自身の心情と繋げる考えは毛頭ありません。しかし、傍線部の叙述は、『道草』の語り手が健三の視点に寄り添いつつも、健三の内面に立ち入り、彼が無意識のうちに抱く感情をも見通して解説を加えている場面で、少なくとも作者漱石は、健三自身も気づかない「誇りと満足」を描きこんだということです。『文学論』の「序」は、単に6年前の留学にまつわる様々な感慨が語られているというだけでなく、その背景には6年前に自分が企てようとしていたことに始まり、帰朝後東京帝国大学文科大学講師となり、「英文学講義」としてその一端を開示し、それと同時に「文学とは如何なるものぞ」という問題意識を実践するべく創作活動に入り、さらにその企てを『文学論』として刊行するために講義録を読み直し加筆修正を加えるという6年間の歳月の中で積み重ねられた出来事を経験した後に、改めてすべてを振り返り、様々な思いの去来する中で「序」として書かれたものであることを忘れてはならないでしょう。次回は、いよいよ(F+f)の公式について考えてみたいと思います。
その5 (F+f)の公式の意味するもの
『文学論』第一編「文学的内容の分類」第一章「文学的内容の形式」は、「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す」という一文から始められています。さらに「F」は「焦点的印象又は観念」を、「f」は「これに附着する情緒」を意味し、この公式は「印象又は観念の方向即ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるもの」であると続くのですが、この冒頭の一文の意味するものは画期的なものです。つまり漱石は、「神話」「叙事詩」「抒情詩」「小説」といった文学の種類・種別・様式に関わりなく、逆に〈(F+f)の公式に当てはまるものは全て「文学」と呼び得る〉と考えていたということです。柄谷行人氏は、漱石のこのような考え方を「構造主義的あるいはフォルマリスト的」(「漱石とジャンル」『群像』講談社、1990年)と指摘したのですが、まさに漱石が「文学」というものを特殊な、あるいは「特定の歴史的に存在する形式」ではなく、普遍的に考察することが可能な、人間の心理に具体的に働きかけ「作用する力(ダイナミズム)」として捉え、様々な「F」と「f」の無限の組み合わせの違いによって成立する、と考えていたということです。漱石の『文学論』が刊行されたのは1907(明治40)年のことですが、それに先立ち、近代文学理論が提唱された同時代的状況を考えた時に、この『文学論』の(F+f)の公式が、群を抜いて画期的であったことが分かります。
例えば明治10年代から20年代にかけての西洋文学紹介の中心的存在である坪内逍遥は『小説真髄』(松林堂、1885年9月~1886年4月)の中で「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く人情とは人間の情欲にて、所謂百八煩悩是なり」と指摘しています。小説で重要なのは人情を描くこと、心理状態を描くことであるという訳です。確かに逍遥の時代の日本文学は、江戸末期からの戯作文学の流れか、あるいは西洋の政治思想を紹介する啓蒙論説、翻訳文学、政治小説が中心だった中で、何かのためになる文学というのではなく、人間の情緒・心理を写実的に描写することを主張した逍遥の功績は大きなものでした。しかし弟子の二葉亭四迷が批判するように作為的に「善悪二極」を設定する「勧善懲悪的物語」になりがちであることは否めません。一方、二葉亭四迷は「小説総論」(『中央學術雑誌』第26号、1886年4月)の中で「抑ゝ小説は浮世に形はれし種々雑多の現象(形)の中にて其自然の情態(意)を直接に感得するものなれば、其感得を人に伝へんも直接ならでは叶はず。直接ならんとには、模写ならでは叶はず」と指摘します。小説は浮世の様々な現象(形)を描くことで、その自然の情態(意)を直接表現すべきものであるとは、いわゆるリアリズム小説のことなのですが、「実相を借りて虚相を写しだす」という点において、坪内逍遥に続き近代小説における写実主義の重要性を指摘しています。次に森鴎外「小説論〔医学の説より出でたる小説論〕」(讀賣新聞、1889年1月)では「小説家は果たして此の如き事実の範囲内を彷徨して満足すべきや若し然りと曰はゞ何の処にか天来の奇想を着け那の辺には幻生の妙思を施さんや」「事実は良材なり。されどこれを役することは、空想の力によりて為し得べきのみ。ドーデーがゾラに優れるはここに得る所ありてならん」と結論付けています。小説には事実だけではダメで、「妙思」「空想の力」が必要であることを主張するのです。
坪内逍遥・二葉亭四迷・森鴎外が〈何を、どのように描くか〉という点に議論が終始していたのに対して、漱石は到ってシンプルに(F+f)の公式を提示し、さらに「文学」の「素材」「要素」となる「F」を「感覚F」、「人事F」、「超自然F」、「知識F」の四種類に分け、それらによって引き起こされる情緒「f」との無限の組み合わせが「文学」であると指摘するのです。文学=(F+f)という大命題の元に、『文学論』第二編以降ではどのような議論が展開されているのか、次回は第二編以降の『文学論』の内容をまとめたいと思います。
その6 「幻惑(illusion)」と「本当らしさ」
『文学論』第二編のタイトルは「文学的内容の数量的変化」というもので、「文学の内容が数量的に変化するものなのか?」という大胆な仮説から始まっています。変化するのは、人間の情緒で、まず第一章「Fの変化」で四種類に分類された「感覚」「人事」「超自然」「知識」の「素材」「要素」とそれによって引き起こされる人間の「情緒」が増減するものであるという前提に立ち、その変化を引き起こす「法則」について論じられています。続く第二章「fの変化」と第三章「fに伴ふ幻惑」において、〈疑似体験としての読書行為〉がもたらす「効果」、即ち文学作品がもたらす「幻惑(illusion)」「本当らしさ(verisimilitude)」というものが「作者の側」の仕掛け(「表出の方法」)と、「読者の側」の心理作用(「情緒の再発」「除去法」)によってもたらされるものであることが説明されています。
第二編において特徴的な点は、文学作品の内容を決定するのはもっぱら「作者」の力量にかかっているという認識を覆し、「受容理論」の先駆けとなる「読者」の側からの心理作用も作品の内容形成に関与している点を明らかにした点にあります。つまり読者とは、一方的に文学作品から発信される様々な情報を受け止めるだけの装置ではなく、読者の背後に潜む様々な諸要素(属性)、「個人の遺伝的傾向即ち組織状態、或は個人一体の性質、或は教育、習慣、職業及び生活の境遇」、性別、国籍、年齢、居住地域、実体験(「直接経験」)、受けた教育、読書歴、家族構成、宗教、嗜好等によって、作品への共鳴の度合い・作品の解釈が異なると考えているのです。換言すれば、読書行為が意味の再生産の場となるということです。また、たとえ「超自然F」(神、妖怪変化、怪異、超自然現象等)が作品のテーマであったとしても、読者が引き込まれるということは、描かれていることが真実であるかどうかという「リアリティ」の問題ではなく、「文芸上の真」「幻惑(illusion)」「本当らしさ(verisimilitude)」の問題であることを指摘して、第三編「文学的内容の特質」に繋げています。
第三編では、この「本当らしさ」をめぐって、「科学上の真」と「文芸上の真」を比較し、「文芸上の真」即ち「本当らしさ」を得るためには、必ずしも「科学上の真(reality)」が保証される必要がないこと、たとえファンタジーであっても「文芸上の真」が保証されるということは、読者がいかに作品世界に共鳴するかという点にかかっており、その共鳴のメカニズムに焦点があてられ解説されています。ここで問題となるのは、第四編第七章「写実法」に発展する問題意識として、〈表現〉と〈表現されるべき現実〉との関係です。つまり「自然主義文学」が〈現実をあるがままに写し取る〉という姿勢を主張する時、それは写し取るにたる〈客観的真実〉〈写実的描写〉というものが存在することを前提としています。あるいはまた〈客観的真実・写実的描写などありえず、個人の知覚や意識の流れこそが我々の経験の全てである〉とする「モダニズム文学」の基本姿勢もまた、本当に〈意識の流れを忠実に再現すること〉が可能なのかという疑問に常にさらされているのです。
この「意識の流れ」と「写実」について、漱石は第三編冒頭で「文章の上に於て示された意識は極めて省略的」なものであること、たとえ「短時間の心的状態」であったとしても、その「推移を遺憾なく文字を以て連続的に描し出ださんことは到底人力の企て及ぶところにあらざるべく、かの所謂写実主義なるものも厳正なる意義に於ては全然無意味なるを知るべし」と、明らかに写実主義・自然主義批判を展開しています。現実を完全に写すことなどできないということは、〈表現〉と〈表現されるべき現実〉との間に必ず〈ずれ〉が存在するということです。これこそが〈文学の虚構性〉なのですが、例えば『文学論』の元となる「英文学講義」と並行して書かれた短編作品「倫敦塔」、「カーライル博物館」、「琴のそら音」、「趣味の遺伝」は、〈語り手〉によって煽られた読者の期待が、結末において翻されるという共通の構図を持っています。この期待と翻された現実の差異・ずれが〈アイロニー〉となり、この〈アイロニー〉を意識的に作り出すことこそが、〈文学の虚構性〉となることを、漱石は東京帝国大学で講義をしつつ、同時にそれを実践していました。次回最終回は残り第四編・第五編の内容を紹介し、漱石が何を目指したのかを考えたいと思います。
その7 引用から創作へ
『文学論』第四編「文学的内容の相互関係」は、「文芸上の真」即ち「本当らしさ、ありそうなこと=verisimilitude」を伝えるための「手段」について考察する編となっています。漱石はこの「手段」を説明するのに、ギリシャ以来の「修辞学」の分類によらずに、その大部分が「観念の連想を利用したもの」、即ち「心理的作用」によるものであると指摘していることは重要です。つまり、第三編で提示された「幻惑(illusion)」という効果も同様なのですが、漱石は『文学論』において、一貫して「文学」を〈人間の意識に働きかけ、作用するもの〉として捉えていることが理解できるからです。
ここで重要なのは七章「写実法」において、漱石は「文学的効果」としての「幻惑」、あるいは「文芸上の真」をもたらす「技法」は、「取材」と「表現」の組み合わせの問題であることを指摘します。そして文芸史上の思潮「写実派(自然主義)」と「浪漫派(ロマン主義)」も結局のところ「取材」と「表現」の組み合わせのバリエーション(しかも両極端のバリエーション)に過ぎないのだというのです。組み合わせの問題ということは、その両者が「とりかえ可能」な、「交換可能」なものであるということです。漱石は講演「創作家の態度」において、当時日本の文壇の主流であった「自然主義文学」について、次のように語っています。
歴史の研究によつて、自家を律せんとすると、相当の根拠を見出す前に、現在即ち新と云ふ事と、価値と云ふ事を同一視する傾が生じ易くはないかと思はれます。(中略)多くの人は日本の文学は幼稚だと云ひます。情けない事に私もさう思つています。然しながら、自国の文学が幼稚だと告白するのは、今日の西洋文学が標準だと云ふ意味とは違ひます。幼稚なる今日の日本文学が発達すれば必ず現代の露西亜文学にならねばならぬものだとは断言出来ないと信じます。又は必ずユーゴーからバルザツク、バルザツクからゾラと云ふ順序を経て今日の仏蘭西文学と一様な性質のものに発展しなければならないと云う理由も認められないのであります。
ここで漱石はまず、最も新しいものが価値あるものとする「文学」の歴史主義的な順当な発展という考え方を否定しています。さらには次の一文です。
漱石は、直線的な歴史主義的視点を排除するのみならず、さらにロマン主義・自然主義という文学史上の概念を、文体的特徴として自由に操作できるものと考えていることが分かります。漱石の作品が、一作毎に違う相貌を我々読者に見せるのは、漱石が自らの作品を主義・イズムに囚われることなく、それらを、文化的状況を背景とする様々な「要素」として取り入れつつ、作品を描いているからに外なりません。
第五編では、第三編で扱われた「集合意識」と、一時代の「集合意識」がどのような方向に推移し、どのような推移の法則に支配されているかを論じています。ここでも特徴的なのは、漱石の思考は、時代の「趣味判断」の推移が直線的なものではなく、いくつもの円がそれぞれの場所に少しずつ重なり合いながら存在するような並列的なイメージを描いていることです。
『文学論』にはホメロスの『イーリアス』に始まり、さらに十四世紀のチョーサーから十九世紀のディケンズまでの膨大な英文学作品、漢詩、謡曲、さらには評論の中から322 箇所に及ぶ引用がなされています。この引用を駆使しながら、「文学」を人間の心理に具体的に働きかける力として、様々な「効果」を考察する作業を通して、漱石が「文学」というものをどのように捉えたかを探っていました。丸谷才一氏(「三四郎と東京と富士山」『闊歩する漱石』講談社、2000年7月)は漱石が留学していたイギリスの文壇について、次のような興味深い指摘をしています。
渦中にいる人間には見えないことが、渦の外にいる人間にはくっきりと見えるように、あるいは当時のイギリスの「集合意識」による先入観に惑わされることのなかった漱石は、膨大な引用資料を読み解く中で、当時ようやく固まりつつあった英文学史と、それを自明のこととして受け入れる日本の文壇の状況に深い懐疑を抱くと同時に、それが何によって引き起こされているか、その原因を究明しようと企てました。彼が東京帝国大学で行った講義は、「浪漫派」「写実派」といった「文学史的概念の自明性を覆す」試みであり、それは同時に近代英文学史と、それを何の疑問もなく受け入れている近代日本文学史全体を、〈相対化する作業〉となったのです。大学教員として教鞭を取りつつ作品を描き続けた夏目漱石は、次に新聞小説家夏目漱石として新たな出発をすることとなります。その新たなる旅立ちの後押しをしたのは、『文学論』における論理の構築と膨大な数の英文学作品からの引用でした。引用から創作へと、『文学論』の論理が示すものこそ、漱石の創作の方向性と行き着く先を予言しているといえるでしょう。
その8 ご挨拶
2016年7月から始まりましたこのコラムも、最終回となります。2016年12月8日の前夜祭から始まりました第10回フェリス女学院大学日本文学国際会議・夏目漱石国際シンポジウムも3日間の全ての日程を無事に終えることができました。会期中、参加者が本学学生・大学院生を含め延べ1500名を超え、また朝日新聞社を含め、取材申し込みのあったメディア・報道件数も21件を超え、漱石ファンの層の厚さに感動した3日間でもありました。
今回の国際シンポジウムの様子は、1月3日付の朝日新聞で「漱石と世界、響き合う―内外の研究者ら一堂 国際シンポジウム」というタイトルで、前夜祭の基調講演「世界文学としての夏目漱石」、第1部「漱石は世界をどう読んだか?」、第2部「世界は漱石をどう読んでいるか?」という3日間のテーマと内容を網羅する形で本シンポジウムの内容を大きく取り上げ、評価していただき、実行委員長としてこれに優る喜びはありません。
フェリス女学院大学は学生総数が3000人以下のいわゆる小規模大学で、今から146年前に、アメリカの一人の勇気ある女性宣教師が、日本の女子教育のために来日して開いた日本で最も古い女子高等教育機関です。大学というのは、大規模校であろうと、小規模校であろうと、施設設備等、図書館も体育館も、情報機器も、同様に備えなければなりません。とりわけ私どものように、小さな女子大学でこのような大きなイベントは単独で開催することが中々難しいのですが、第10回目となる今回の夏目漱石国際シンポジウムは、まず第2部の翻訳者シンポジウムに賛同して下さった岩波書店様がポスター・チラシ・プログラムの作成、そして3月末に刊行予定の『報告書』の作成を一手に引き受けて下さいました。また国際交流基金様はこの企画全体を評価して下さり、多額の分担金を出して下さいました。朝日新聞社様は、3日目の翻訳者シンポジウムに有楽町朝日ホールを破格の安さで貸して下さり、また何度もこのシンポジウムについて記事を書いて下さいました。この三者の皆さまのご協力がなければ、ここまで大々的なシンポジウムにはなりませんでした。改めまして、心より御礼を申し上げます。
そして12月8日から今日までの3日間、優れた研究の成果をご発表いただいた先生方、また横浜のフェリスと有楽町朝日ホールに足をお運び下さり、夏目漱石について学びの時を共有した参加者の皆さまにも感謝を申し上げます。
フェリス女学院大学が企画する日本文学国際会議の目的は三つあります。一つ目は学生への教育、二つ目は社会貢献、そして三つ目は世界との知的交流の三つです。
小さな女子大学ではありますが、小規模校ならではの丁寧で、学生一人ひとりに目の行き届いた教育を行うことで、社会貢献と世界に通用する知の発信を継続していきたいと考えております。
3月末には、岩波書店より『生誕150年 世界文学としての夏目漱石』というタイトルで、「第10回フェリス女学院大学日本文学国際会議・夏目漱石国際シンポジウム報告書」が刊行されます。皆さま、どうぞお楽しみに!
これからも、フェリス女学院大学をお見守りいただきたく、どうぞ宜しくお願い申し上げます。